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暴言を吐くということ

朝起きて、隣人がエアコンを操作する音が聞こえた。それは、逆にこちらの音も向こうに聞こえてるということになる。そんなことには随分前から気づいていたけれど、やはり気持ちが悪いことである。

そのことに対してイライラして、暴言を吐きたくなった。その代わりに文字にしておいた。このご時世、人を怒らせたら殺されることまで考えなければならないから。

そこで眠たい頭で、暴言を吐くとなぜスッキリするのだろうか、と考えた。

『暴』と頭につく熟語を他に思い浮かべるとすぐに『暴力』が出てくる。イラついて暴力を振るうというのもよく聞く話である。物にあたってしまう、というのも似たようなことだとは思う。

それらをすることでなぜ気持ちがスッキリするのだろう。

そのイライラする感情は平常時の精神状態よりも過度に何かを感じてしまって、そこに精神をすり減らしている、余分にパワーを使ってしまっている(キャパオーバー)ということになって、そのいらない分をどこかに出したくなる、というものだと考えた。寝起きの眠たい頭で。
出したいという欲求が満たされてスッキリするのだろうなぁという結論に達した。

なんとも小学生みたいな思考回路だけれど、感情ってそのくらい単純なものだと思う。(この思考で腑に落ちて支度が進んだ。)



私は一人で居る時よく暴言を吐いている。勿論ひとりごとで。誰も傷つかないし、残るのはちょっとした自己嫌悪だけだ。それでもやはりスッキリする。
怒りやストレスの発散方法は人それぞれだろうが、私はひとりごとでボソッと「クソッ」とつぶやくだけで済むらしい。精神的燃費は良いほうなのかもしれない。(また変な単語を作ってしまった……。)


そう考えると、私は他人の前で喜怒哀楽の喜楽しか感情表出していないなぁと。喜楽よりなにより表情が無い時のほうが多いとは思うが。
この気付きで最近のアイデンティティこじらせがちょっと和らいだ気がする。自分しか知らない自分は確かに存在していて、その自分らしさに自信が持てる。ちゃんと怒っているし、ちゃんと哀しんでいる。



知人に私が日常生活で何を考えているかを話すと変わっていると言われる。感情や行動ひとつひとつに疑問を抱いて生きているからなのだろう。よくそれで精神がもつな、とも思われるらしいが、全然平気だ。

人間ほど面白い存在はないと思ってる。人間大好き。
その好きという気持ちが、精神的疲れを癒してくれる。


つまらなくなったり、飽きたりしたら、疲れきってしまって好きという感情もなくなるのだろうなぁ。